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色褪せぬまま 見上げ歩くよ

煌びやかな世界の端っこ

イエヒラだけに集中している炎立つ感想

舞台 V6 三宅健

もう大分前の話になるんですが、兵庫県炎立つの舞台を観に行きました。

本当は東京公演を観に行こうと思っていたんですが、あいにく夏休みシーズンで休みが取れない・飛行機代が高い・ホテル代が高いの3コンボで兵庫公演を観に行くことが決まりました。初めてのファンクラブを利用したチケットの申し込みに一人で悪戦苦闘して、どうにかお金を振り込み、ドキドキしながら当落の電話を掛けたことを覚えています。希望通り、2公演のチケットを手に入れた私は初めての兵庫へ飛び立ったわけです。

結果として、地方から来た、電車に慣れていない私が悟ったのは、もう東京以外行かないということでした。もうね、すっごい迷ったの。意味が分からないくらいに迷った。舞台観終わった後に暇だからぶらぶらしてたら、道頓堀に居たときはさすがにホテルに帰れないと思った。地方怖い。地方というか東京以外の街が怖い。これ以降、私は東京以外の場所に遠征しようと思わなくなったわけです。

 

炎立つを見に行った目的

鉈切り丸を観て、次の観劇がこの炎立つでした。今回の観劇のきっかけは、単純に森田さん以外のメンバーの舞台を観に行きたいと思ったことからです。2013年の時点で次の舞台が決まっていたのが三宅さんだけで、じゃあ観に行くか、なんて単純な気持ちで兵庫まで行きました。しかし、暢気に構えていたら、1月28日に事務局からのメールで知らされた森田さん主演舞台、「夜中に犬に起こった奇妙な事件」の決定。さすがに3ヶ月で予定は合わせられないと泣く泣く諦めました*1

時代劇物が好きで、中でも源平ものには目が無い私である。炎立つにも源平が係るということで楽しみに兵庫に行きました。

 

兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール。

9月11日木曜日19時、K列中央。

9月12日金曜日13時半、D列上手。

暗い劇場内に下手側に3人のスタッフ。ギタリストとヴァイオリニスト、そして音響。舞台に音響の人間が残っている現場は初めてだったので、ドキドキしました。

 


ネタバレを含みますので、お気を付けください。

 

 

大まかな流れ

 陸奥守に国を分割して分け与えられた、異父兄弟の兄・キヨヒラ(片岡愛之助)と弟・イエヒラ(三宅健)。キヨヒラは南を、イエヒラが北を治めることになる。2人の母親であるユウは巫女から「キヨヒラはエミシの国を継ぐ子」と予言を受ける。
分け与えられた領地の配分に納得がいかずイエヒラは、兄を木偶の坊扱いをし、不満をぶつける。自分が棟梁だと譲らず、キヨヒラと対立するイエヒラにユウは「同じ腹を痛めて産んだ我が子に、第一も第二もない」との言葉に投げかける。その言葉に、キヨヒラが一番だから自分は大事にされていなかったと思っていたイエヒラは怒りを収めたかに見えた。 

しかしイエヒラは、納得が行かず、巫女カサラに自分も未来を見て欲しいと頼み込む。カサラは東北の古代神アラハバキから直々に予言をしてもらうようにと助言左手に小太刀を突き刺し、アラハバキを呼び出すことに成功するイエヒラ。

アラハバキの予言には国を治めるのはキヨヒラであり、イエヒラではないと告げられる。では、自分は何を得るのかと尋ねると、「三万もの兵と、戦いの最後にはキヨヒラが膝をついて涙する」と知る。その予言に納得いかず、イエヒラは自分の運命(さだめ)を打開しようとアラハバキに魂と預けることになる。

 パンフレットに目を通さずに、観劇しました。少し日本史には詳しい程度だった私には、歴史の教科書に多くは取り上げられていないこの舞台の内容は少々難しかったんですが、パンフレットや二回目の観劇では一回目の時に見落としていた、または分からなかった部分が理解できて、とても新鮮な気持ちで観る事が出来ました。

以下、詳しい感想ですが、この時はあまりレポをしていなかったので、思い出せる部分だけを。

 

炎立つ

私の知っている三宅健は、男性には珍しいハイトーンなボイス。茶目っ気溢れる表情に、くるくる変わる雰囲気に、いつでもにこにこ楽しそうにしているイメージがあった。しかし、舞台に出てきた三宅健は全く違った。しわがれた地面を這うような低い声も、すらりと伸びきった体躯に、爛々と光る眼光が、今まで見てきた三宅健とは全く違う人物で、酷く驚いた。舞台は自分じゃない誰かに成り切って演じるもので、その人越しにキャラクターを見るのが新鮮で、そこが魅力的だ。その点に関すると、本来の三宅健とは全く真逆な、イエヒラを演じる三宅健を観れたことは嬉しかった。余談ですが、舞台の三宅さんはいつもの三宅さんより身長が高いように見えたから舞台マジック本当にスゴイ。

 

炎立つはキャストがたった13人の舞台で、圧倒的にキャストの人数が時代に合わない。じゃあそれを誰が埋めるかとなったときに、コロス役の4人が素晴らしい演技をしてくれました。時に兵になったり、民になったり、語り部を担ったり、舞台装置の一部になったり。色んな役を衣装はそのままで演じる。この4人が居なければ舞台は成り立たないと言っても過言ではないほどに。シンプルに作られた演出だからこそ、逆にキャストの言葉のひとつや、挙動のひとつが際立ち、目を引く。コロス役は本当に素晴らしい。

 

イエヒラは常に兄のキヨヒラから領地を奪おうかと思案し、そしてアラハバキの力を見に宿します。アラハバキが出てきたときはそれはもう驚きました。驚いたというか、戦いた。天井からつるされた紐で封印されていたがアラハバキがもがきながら解かれるシーンは響く低音に脅えて、平さんのデカさに震えました。あの人の立っている場所だけ空気が違う。見ている私も息を呑みました。

アラハバキに操られて、イエヒラがくるりと側転をするシーンがあるんです。アラハバキは左手で宙をきれば、イエヒラもその手の動きに合わせて飛んでいき、そして左手が円を描くと、イエヒラがそれに合わせて側転をする。それをみたときは「イエヒラが操られている!」というよりは、「三宅さんの側転!」と一瞬ファン目線に戻ってしまった自分が勿体ないと思います。悔しい。

 

アラハバキに魂を預けることにより、力を借りたイエヒラは、話が進むごとに目の下のクマがどんどん濃くなっていく姿が、観ていて痛々しかった。兄とは完全に対立して、棟梁になろうともがく様。自分は強いと思い雄叫びを上げる姿。どうしてここまでイエヒラは「棟梁」に縋るのか。

きっと母親はキヨヒラの方が大事になんだともう既にわかっていて、自分は兄のように、望まれて生まれてきた子供ではないということも理解していたイエヒラが、棟梁という座にしがみついて、地位と名誉を確立しようとしている姿はとても悲しかった。築き上げれば、母親はきっと自分を認めてくれる。そういう思いが根本的にあったんだと思います。あの時代の母親という存在は、今より大事なもので、母親に認められることは一人前で、母親に否定されることで自分は駄目な人間だと思う人も多くいました。マザコンとはちょっと違う、母親への単純な愛情と絶大な信頼。だからこそ、イエヒラは母親であるユウに認められたいと純粋に思った気持ちで、棟梁の座に固執したのかと思うとそれはもう可哀想で可哀想で。
イエヒラの選択とはいえ、アラハバキに魂を渡してから、どんどん険しく、人間の物とは思えない暗く卑しい表情に落ちていく様も、母の愛に飢えた可哀想な人間だと思うと、その瞳の先に映っていたのはやっぱり兄でも土地でもなく、ただ一人だったのかな。

 

母親が自害したと知ったときの表情は何とも言えなかった。絶望とはまた違う、大切なものを無くした子供のような、瞳。さっきまで暗く淀んでいた瞳は、怒りだけを孕んでいて、それをどこにぶつけていいのかわからず声を荒げるイエヒラ。

「なぜ母上まで自害した?キヨヒラの為か?どうして皆、逃げ隠れするキヨヒラの為に自分を犠牲にする!」

このシーンのイエヒラは、子供のように見えた。耳を劈くような怒号の理由はイエヒラにも分かっていたはず。理由は知っている。けれど納得できない。納得したくないと駄々をこねる。

 

逃げ隠れするキヨヒラは舞台にずっと出ずっぱりで、明るさを押さえられたスポットライトの下にずっといました。隠れている演技をするために一歩の動くことなく、肩すらも動かない、まるで石になったかのような愛之助さんにびっくりしました。時計を持っていなかったので、正確な時間は分からなかったんですが、多分10分以上は同じ体勢で動かずにじっとしていた。私には到底無理だ。というか人間があそこまで動かないのを初めて見た。愛之助さんの体はどういうつくりをしているのか気になった。

 

舞台終盤。イエヒラは完全にアラハバキの力で強くなった自分に驕り、酒に明け暮れる。イエヒラの三万兵は疲弊しているのに、それを理解せずに独りぼっちの王様は、それでも兄を恨む。近くにいた兵(コロス)に自分という存在についていろいろと問い質すシーン。兵の答え方はイエヒラの機嫌を損ねないようにと必死で、怯えながらイエヒラの満足する答えを与える。これだけで、イエヒラはどれだけ暴君で兵を思いやっていないかもわかるし、怯える兵にイエヒラを慕う気持ちの欠片もないことに気が付く。イエヒラだけはそれを分からないまま、兵を無駄に消費する。イエヒラは、民の為ではなく、最初からずっと自分の目的の欲に為に行動していたから、それも当たり前と言われてしまえばそれだけでした。本当に、哀れと言う言葉が似合う男でした。

結果として、イエヒラはアラハバキからも見捨てられることになる。見捨てられる…違うな。見離されて、独りぼっちに戻るだけだった。

アラハバキの予言で、「キヨヒラより遥かに多くの兵を手に入れて、戦の終わりには跪いて涙するキヨヒラを見る」の意味は、聞いた瞬間から顛末が予想できました。イエヒラは「跪いて涙するキヨヒラ」の意味を「戦に負けて悔しがるキヨヒラ」だと読解したのか、嬉しそうにしていましたが、なんとなく予想していた私には可哀想に見えた。「跪いて涙するキヨヒラ」の意味は、私が予想した通り、イエヒラの死骸を見て、キヨヒラが涙するという意味だった。

食料が無くなり、痩せこけたイエヒラの顔。煤に塗れた顔に、目元は真っ黒。死相が出ているのかと思うほどの表情の彼は、アラハバキに願う。自分は戦って死にたい。雑兵として、死なせてくれ、と。しかし、それは叶うことなく、イエヒラは醜い刀を乱暴に振り回し、最後には悲痛な声で飢えて死んでいく。

「俺は…なぜ、戦ってるんだ。怖いからか……? 俺は今ものすごく怖い!怖いから戦うのか…? 俺は、なぜ、生まれた? 俺は、なぜ……、生きた…? 俺は…何だったんだ…」

掠れた声、言葉を一つずつ紡ぐ音に誰もが、可哀想な男の最期だけを観ていた。一言一言、誰かに問うような声音。掠れて今にも声が途切れそうなイエヒラが刀を天に翳した手が、糸が切れたかのように落ちた時の静寂。泣きましたとも。結局最後の最後まで、イエヒラは何もわからずに死んで行ったのかと思うと、本当に哀れで可哀想で。何故こんなことになったのか、自分は要らなかったのか。問いながら、死んでゆくイエヒラに答えを教えてあげたかったほどに。

 

後半からは、イエヒラと鉈切り丸の二人が重なっているように感じて、ただでさえ弱い涙腺が緩んで大変でした。

鉈切り丸もイエヒラも『母親の愛』に飢えてる可哀想な人間に見えた。後半は可哀想、可哀想、かわいそうなひとって感想が中心にあったような気がする。あの時代母親に認められるってことはとても喜ばしいことだから、兄弟がいるなら誰よりも自分を見て欲しいと思ったが故のイエヒラの行動。

鉈切り丸の場合は可哀想な自分が嫌で、それを認めさせる力があったし、知略もあった。故に周りに求められて、でも容姿から気味悪がられた。でも、イエヒラの場合は自分の処遇と兄の処遇を比べて、納得できなくて力を求める。その求め方が間違っていて、孤立感を高めた。 結局、どっちも可哀想で、そして哀れに死んでいく。

 

舞台が音も光もない世界に包まれ、パッと照明がついて、キャストが出てきたとき、私の涙腺は完全に崩壊した。

アラハバキに魂を渡した後、イエヒラの目元はどんどんどんどん濃くなって、死ぬ前には顔も薄汚れて狂喜に落ちた哀れな表情をしているのに、カーテンコールでキャストが舞台上に並んだ時のイエヒラの顔はメイクを落とし切っているためかすっごく綺麗で、それで、ああイエヒラは、三宅健は舞台に生きていたんだと思って、ぼろぼろ泣きました。

舞台中、ずっとイエヒラは薄汚れたメイクをしていて、カーテンコールに出てきたイエヒラの顔はすごく綺麗だったのが、とても対照的で涙腺が刺激された。自分が泣くときに声を上げるタイプの人じゃなくて良かったと心の底から思いました。本当によかった。

 

炎立つは、一回目を観て、二回目を観たらすごく満足した舞台でした。観れるものなら観たいとは思うけれど、要所要所で色々と考えさせられる部分もあり、それが一回目と二回目で視点を変えることにより納得できたし、いい舞台を見せてもらえたと思う。スタンディングオベーションはしました。観れてよかった!私の気持ちを伝える手段はこれしかないので。

 

そういえば。

一回目が劇場の中心の席で、二回目が前列だったので、視点を変えて楽しむことができたんですが、二回目は席が近い分、ちょっとした心遣いが見えた。

 アラハバキに魂を預けた後、兄の元にいる母親を迎えに行くシーン。母親に共に行こうと言うが、断られ、しまいには「お前を産んだことが恥ずかしい」とすら言われるイエヒラ。この場面のイエヒラもすごく可哀想で*2、結局イエヒラは母親のお腹に拳を入れ、気絶させて肩に乗せて無理矢理運ぶことに。舞台上では、荒々しく片腕で運ぶのに、舞台から袖に引っ込むと、両腕で優しく抱える三宅さんが見えた時に、「みやけーーー!!!」となりました。完全に雑念でした。二回目だったからすぐ舞台に集中力もって行けたからよかったけど。私の席がちょうど舞台袖が少し除ける位置にいて、偶然にも見えた瞬間だったんですが、ちょっとだけ優越感に浸りました。やっぱり女性をそのまま片腕で持ち上げるのは…ね!

 

……と、今回は少々雑にイエヒラ中心の感想になってしまったんですが、炎立つ!見に行って本当によかった!!!迷ったけど!すっごく迷ったけど!!行ってよかった!!

そんな感じの炎立つ感想でした! 

  

 

 

 

 

 

 

 

 ちょっとした余談。賛否両論あるような気がするので、続きをちょっとたたみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兵庫公演のスタンディングオベーションについて

 この記事を書こうと思った当初(9/15)はこのことを書こうと思わなかったんですが、三宅さんがラヂオで話していたので、私から見たスタンディングオベーションの話をします。

兵庫県立芸術文化センター、凄くね良い劇場で、今回はじめて行ったんですけど、だいたい舞台って東京と、大阪しかやったことがないので、地方巡業自体が初の巡業だったんで、凄く良い劇場でしたね。
なんかシアターコクーンにキャパでは似てるんですけど、もっと凝縮されてキュットした感じで、凄く安くて、一番最後尾でも後ろの列でも前でも、勿論違いますけど、前と後ろの差がそんなに感じないというか、っていうぐらい見やすい劇場だなって思いましたけどね。
ちょっと僕はあそこでお芝居を見たことがないから見てみたいなと思って、逆に思いましたけど、本当にたくさんのお客様が見に来て頂いて、本当に感謝しております。
いやでもね、兵庫県とか凄かったな、なんか面白かった。
スタンディングオベーションって実を言うとあんまり好きじゃないんですよ。
なんか自分が本当に感動しない限り、僕はスタンディングオベーションはしない人なんですよ。
まぁアメリカ人じゃないし。
でもなんかみんなが立つから立つってんじゃなくて、本当にそういうのってお芝居してる人間たちには凄く伝わってくるんですよ。
だからそれが凄く、とにかく凄いって思ったのが兵庫だったのかな~。
ラヂオの日記: 2014年9月29日のラヂオより

 何故三宅さんがこんな話をしたかというと、リスナーから兵庫で炎立つを観劇したとの旨のメールが届いたからである。兵庫の地に思いを馳せながら、感じたものを熱を込めて語ってくれた。三宅さんがそれだけの思いを抱えたの舞台を、兵庫の地で観れたことはとても運が良かったと私は思った。

その中で語られているスタンディングオベーション*3。三宅さんはスタオベが嫌い*4と言い切っているが、この「嫌い」は自分の感動した気持ちで立ち上がったスタオベではなく、「みんなが立つから立つ」・「周りが立つなら立とう」という気持ちで拍手を送るスタオベに嫌悪の色を見せたのだと思う。

その点に関して、三宅さんは兵庫公演の観客を褒めたのだ。このラジオだけ聞くと、それはそれは凄まじいスタオベだったのだろうと思う人もいるだろう。しかし、私の見たスタオベはそうじゃなかった。

 

炎立つの主演は、歌舞伎で一躍有名な片岡愛之助さん。3年先までスケジュールが埋まっていると聞いたときは、度胆が抜かれたが、兵庫公演に足を踏み入れてみるとその人気ぶりに納得した。鉈切り丸のときは年齢層にばらつきがあったが、見渡す限り女性ばかりで、どちらかというと森田剛を目的としている人が多かったように見えた。(失礼だと思うけれど、私はそう感じた。)しかし、私が入った9月13日のソワレと9月14日のマチネは、年齢層が高く、愛之助さんを目的とした印象を受ける方が多かった。

舞台が終わり、私は立ち上がり、拍手を送った。キャストも袖から出てきて、観客に頭を下げていたのを覚えている。しかし、キャパが800人で満席に近かった劇場の中で、立ち上がる人数が明らかに少ないのだ。私が初めて見たスタオベが鉈切り丸の大千秋楽で、「スタオベ=舞台が終わったらやるもの」と認識していたのも原因だが、私の見る限りでは立ち上がって拍手を送る人があまりいなかった。

私の周りは、私とは系統が違うような年配の方が多く、着物を着た人もちらほらいた。もしかして、愛之助さん目的なのかなとまた思ってしまうほどに。周りの目的が主演であるジャニーズだった舞台しか観たことがなかった私にはその光景が新鮮に感じた。初日は1階のど真ん中だったこともあり、私より前の列と、ちらりと振り返った背後の列しか確認できなかったが、約330名の中で立ち上がっていたのは、50人にも満たなかったような気がする。何分3か月も前の記憶なので、少々あやふやなのだが、私の視界の中で確かに少なかったのだ。私の手のひらからキャストに向けて送られる音に、キャストはひとりひとり確認するかのように感謝を込めたように頭を下げていた。

 衝撃を受けたし、少々悲しくもあった。疑問を感じ無かったと言ったら、嘘になる。どうして立ち上がらないんだろうと、隣の女性を見た。失礼だが、観ていないのかと思ったけれど、その方はしっかりと舞台を観ていて、目を逸らすことなく舞台を感じていた。ならば、なぜ。そんな気持ちを引きずった私は、9月29日のラヂオを聞いたのだ。

 でもなんかみんなが立つから立つってんじゃなくて、本当にそういうのってお芝居してる人間たちには凄く伝わってくるんですよ。
だからそれが凄く、とにかく凄いって思ったのが兵庫だったのかな~。
なんかその本当にお客さんとやっている役者さん達が一体となったっていうような公演が幾つもあって、まぁ言い方悪いけど、おこぼれのスタンディングオベーションとか、そういうものではなくて、本当にその人達の意思で立ちたくて立ってるんだってことがひしひしと伝わってくるような感じで、だから終わったあとも、愛之助さんと凄く温かい良いお客さんたちだったねっていう話をしてたんです。

 スタオベの「立つ」・「立たない」の選択肢は個人にあるのだ。立った人たちの気持ちは確実にキャストに伝わっていて、それをしっっかりと受け止めている。おこぼれのスタオべは要らない。

ラヂオで三宅さんがそう言った時に、兵庫で劇場にいた人に向けた気持ちが申し訳ないと思った。「スタオベするのは当たり前」という概念を勝手に人に押し付けていた自分が恥ずかしくなったのだ。立って拍手をするのは自分が決めることで、他人に押し付けられてするものではない。現に私が立ち上がったのも誰かに言われてしたことじゃない。それなら、隣に座っていた女性が立たなかったのも、スタオベが少なく感じたのも、ひとりひとりが選んだ答えなら、私がとやかく言う問題ではない。私は単純に「観てよかった」という気持ちを、声に出せない思いを伝えたくて拍手をしたので、それがキャストに伝わっていたなら単純に嬉しい。

 

 とにかく、私が兵庫公演で感じたのはスタオベの人数が少なかった。けれど、立ち上がった人は周りに流されず自分の意志で立ち上がり、拍手を送ったのだ。三宅さんがおこぼれじゃないと言い切ったスタオベ。他の地方公演を見ていない私は、兵庫で行われたたった2公演の話しかできないが、私の見たスタオベはそうだった。

 

*1:しかし、このあとの怒涛の舞台ラッシュでやろうと思えばどうにかできたと気づく。

*2:殆どの感想が可哀想ばっかりだと今更になって気づく

*3:以下、スタオベ

*4:いやでも鉈切り丸大千秋楽のときは、スタオベしてたし、二宮さんが先に劇場を後にしても残って拍手していたよねというツッコミを小さな声でしておく。